赤子から幼児あたりまでの保湿剤やら日焼け止めやら 多分肌弱めの子用ラインナップ
赤ちゃんの保湿って大事なんですよね。私が2年8ヶ月前に産んだところでは、3ヶ月くらいまでは保湿要らないわよ~なんて言われたんですけど、多分今はもうさっさと保湿がトレンドなのではないかなあ。
以前まで、食物アレルギーは消化管でアレルゲンが吸収され感作が成立する腸管感作が主体と考えられていました。ところが近年の研究結果から、スキンケア不足による「経皮感作」により食物アレルギーは進行し、食物アレルゲンを症状なく食べて摂取を続けることにより「経口免疫寛容」が誘導されることがわかってきました。
2014年に、当院から世界で初めて有効なアレルギー疾患の発症予防法が研究成果として発表されました。成育出生コホート研究におけるランダム化臨床研究介入試験で、新生児期からの保湿剤塗布によりアトピー性皮膚炎の発症リスクが3割以上低下することが分かりました。
皮膚のバリア機能が障害された状態で、早期に十分な対応がなされず皮疹の改善が遅れると、食物アレルゲンの皮膚感作が進行します。スキンケアを徹底して行い、皮膚バリア機能を改善し、新たな皮膚感作を起こさないようにしましょう。
どうも口に入る前に皮膚から入ってしまうとアレルギーになりやすいようで。なので保湿で肌を守りましょう、と。
いうことで、それこそ新生児の頃は検索しまくって端から試していたのですけど(世の中にはなぜかサンプル長者みたいな人がいてメルカリでまとめて売ってくれたりするのでざざっと試せてありがたかった)、結局こちらに落ち着きました。
このシリーズ、ボディソープと保湿剤しかなく、うちは両方使ってます。
お友達が送ってくれたのだけど、これが一番、何もブツブツとかが出なかった。
皮膚科によく置いてあるので、とにかく低刺激なんでしょうね。
ノブ、送料無料なんですよね。悪いのでいつも複数個で買いますが。。
あと、風呂の後にはこれ。
自分で配合しろよっていうくらいのシンプルな化粧水で、アトピーのある夫が元々風呂上がりに使っていたんですが、子にもついでに。
こちらはAmazonでも買えます。なんならAmazonの方が安い。
スプレーノズルが別売りなのだけど(本家で6本(1箱)買うとおまけでつけてくれる)、これが上から押すタイプで結構指の力が要る。
困ってネットで検索したところ、なんと無印のスプレーヘッドがぴったりはまるとのこと!
スプレーヘッド・トリガータイプ 化粧水用 通販 | 無印良品
買ってはめてみたところ、完璧でした。ありがとう。使うのがすごく楽になった。
シュッシュッ。
ボディーソープもノブを使っている、と書きましたが、シャンプーについては、1歳の夏からノブのボディーソープだとちょっと臭うな(皮脂が落とし切れていないな)という感じが出てきたので、これも色々試した結果、こちらに落ち着いています。うちの子、生まれたときから毛量が多い。。
こちらのボディーソープも良いのですけどね。でも基本ノブが好きかなー。
別に自然派とかはないので、ほんとその辺のドラッグストアでさっと買える物が良かったんですけど、だいたい全部試して、どうもポツポツが出るな・・?などがあり、うちの子は、肌が弱そうには見えない割につけるものを選ぶタイプだなと、このあたりに落ち着いてしまいました。若干お高い。
まあ、両親とも、肌が強いわけではないから、しょうがないなあ。
あ、あと日焼け止め。日焼け止めは面白いところに落ち着いたというか、これを使っています。
虫除け系のハーブの匂いがするけれども(この詳しくなさ)、子の肌も荒れないし、伸びもよいしよいなと。
この商品、Amazonでは価格が結構変動するんですけど、定期便がお安い感じがする。
あ、この日焼け止め以外の上で紹介したものたちは全部無香料です。
※2020年6月1日追記
結局、日焼け止めも子が匂いが嫌っぽかったので、こちらに変えました。
白の残りもせず、伸ばしやすく、良い感じ。まあほぼ倍しますけどね!
以上です。
今更だけど使って良かったものは記録しておこうと思って書くことにしました。今更だけど。
しかし、保湿って止め時が分からないね?
いや大人になっても結局してるからずっとしておけばいいのかもしれないけれど、自分は若い頃はたいしてしてなかったので・・特に10代・・
「だが同じ3時間を家で家族と過ごしても、何かをしたという実感は得られず、その時間を家族と過ごしていなかったとしても特に問題は起こらない。」
結構前にこちらの記事を読んで、この本を読んでみた。
52個の、人生を幸福に過ごすためのコツが集められた本で、多分著者の方が結構な幸福論マニアなんじゃないかと思うけど、色々と参考になった。
ただ、育児中に細切れに読んだので読む端から忘れてしまい、kindle版で良かったなあと思った。目次がそのまま52個の索引なので分かりやすい。また読もう。目次はこんな感じ。
目次より
・考えるより、行動しよう──「思考の飽和点」に達する前に始める
・なんでも柔軟に修正しよう──完璧な条件設定が存在しないわけ
・大事な決断をするときは、十分な選択肢を検討しよう──最初に「全体図」を把握する
・支払いを先にしよう──わざと「心の錯覚」を起こす
・戦略的に「頑固」になろう──「宣誓」することの強さを知る
・必要なテクノロジー以外は持たない──それは時間の短縮か? 浪費か?
・幸せを台無しにするような要因を取り除こう──問題を避けて手に入れる豊かさ
・謙虚さを心がけよう──あなたの成功は自ら手に入れたものではない
・自分の感情に従うのはやめよう──自分の気持ちから距離を置く方法
・ものごとを全体的にとらえよう──特定の要素だけを過大評価しない
・買い物は控えめにしよう──「モノ」より「経験」にお金を使ったほうがいい理由
・自分の向き不向きの境目をはっきりさせよう──「能力の輪」をつくる
・静かな生活を大事にしよう──冒険好きな人より、退屈な人のほうが成功する
・SNSの評価から離れよう──自分の中にある基準を見つける
・自分と波長の合う相手を選ぼう──自分は変えられても、他人は変えられない
・思い出づくりよりも、いまを大切にしよう──人生はアルバムとは違うわけ
・そそられるオファーが来たときの判断を誤らない──「尊厳の輪」をつくる その3
・性急に意見を述べるのはやめよう──意見がないほうが人生がよくなる理由
・嫉妬を上手にコントロールしよう──自分を他人と比較しない
・解決よりも、予防をしよう──賢明さとは「予防措置」をほどこすこと
・読書の仕方を変えてみよう──読書効果を最大限に引き出す方法
・「心の引き算」をしよう──自分の幸せに気づくための戦略
・形だけを模倣するのはやめよう──カーゴ・カルトの犠牲にならない
・組織に属さない人たちと交流を持とう──組織外の友人がもたらしてくれるもの
・期待を管理しよう──期待は少ないほうが幸せになれる
・本当に価値のあるものを見きわめよう──あらゆるものの90パーセントは無駄である
・自分を重要視しすぎないようにしよう──謙虚であることの利点
・自分の人生に集中しよう──誰かを「偉人」に仕立てあげるべきではない理由
・内なる成功を目指そう──物質的な成功より内面の充実のほうが大事なわけ
……など52章
付録にこの52個のtipsのために著者が参考にした文献や引用がついていて、その中に面白いものがあった。それがタイトルにした文章。自分が子育て中だから気にかかったんだと思う。
6 戦略的に「 頑固」になろう
・『 ザ・ニューヨーカー』誌に掲載 されたクレイトン・クリステンセン のインタビュー記事 に、 彼が語ったという、管理職 の人たちの家庭が崩壊しがちな理由が書かれている。「オフィスで3時間働くと、仕事がはかどれば達成感を持ち、はかどらなければ即座に落胆を感じる。だが同じ3 時間を家で家族と過ごしても、何かをしたという実感は得られず、その時間を家族と過ごしていなかったとしても特に問題は起こらない。そうして どんどんオフィスで過ごす時間が長くなり、 利益率の高い案件や、仕事 の成果がすぐに形となってあらわれる案件をこなしているうちに、お金を 稼いでいるのだから、家にいないのは家族のためだとさえ思うようにる。 ( MacFarquhar, Larissa: »When Giants Fail«. In: The New Yorker Magazine, 2012 年 5月 14 日)
ロルフ・ドベリ. Think clearly 最新の学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考法 (Kindle の位置No.4963-4969). サンマーク出版. Kindle 版.
ああー達成感なーと思った。
そして、思い当たる人多いんじゃないかなあ、と思った。
子育て中の辛さの一つに、家事育児には達成感がない(&それですら邪魔され続ける)というのがあるけれども、まあそれは、(子を誰かに預けて)たまに思いっきり掃除をしたり、あと、自分の「達成感の指標」自体を変えることでどうにかやっていける。というかどうにかするしかない。
この、「達成感の指標を見直す」機会が持てるのが、子育てがもたらすギフトの一つだと思う。
たとえば、ただでさえ私は元々「仕事」よりも「作業」が好きで、価値としては雑務に近くても、すぐに、毎日、毎時間達成感を得られるものを追い求めがちだったので、子育てをする中で、「目に見える作業の完了」や「物理的に何かが片付く」以外の、一緒にいるだけ、食べるだけ、の中で子や私の中に醸成されていく時間というものに価値が感じられるよう、頭の中を変更中だ。
そして、それはなんだか良いことのように思える。
でも、子供が生まれても、この価値観の再検討に迫られない人の場合。たとえば、夫婦どちらかが専業で子育てを引き受けていて、自分は特に時短も退職も必要無く子供が生まれる前と同じように働いている方の人の場合。
こうなってしまいがちではないだろうか。
頭の中が「3時間を家で家族と過ごしても、何かをしたという実感は得られず」のまま止まってしまう。
引用部はこう続く。
クリステンセンは、社会人人生をふたつのパートに分けようとする人々を たくさん見てきた。 彼らはその前半でキャリアを追求し、 将来のある時点からの後半を家族と過ごそうと考える。だが、いざその頃になってみる と、一緒に時間を過ごすはずの家族はもう彼らのも にはいないのだ。そこでクリステンセンは、日曜には働かないと神に誓いを立てることにした。家族には、土曜には仕事をせず、平日も夕食の時間までには 帰宅し 外が まだ明るければ子どもとボール投げをすると誓いを立てた。クリステンセンはその誓いを守るために朝の3時に仕事に出るときもあったという」( MacFarquhar, Larissa: »When Giants Fail«. In: The New Yorker Magazine, 2012 年 5月 14 日)
ロルフ・ドベリ. Think clearly 最新の学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考法 (Kindle の位置No.4969-4976). サンマーク出版. Kindle 版.
ちょっと話ずれるけど、昔から、たまに友達にいる「足るを知る」人達が不思議だった。若かったとしても、地位や報酬や達成感や刺激を求めるよりも、身近な人とのゆったりとしたコミュニケーションを大事にする人。自分の家族が大好きで、自分も早く家庭を持ちたいというのが第一の望みの人。
きっと「生産性」を一番にしない人達で構成された家庭で育ったんだろうなあと今は分かる。ずっとちゃんと、その人がどんなあり方でもどんな時間の過ごし方でも、その価値を認められる場に育ったんだろうなあと。
自分の場合は、特に生産性を追い求める親でもなかったんだけど、逆に親に価値観がなさ過ぎてしょうがないから世間を参考にして、「生産性かな?」みたいに私が勝手になってしまった気がする。就職氷河期世代で、値踏みされがちだったし。
さておき、自分が育った家庭の価値観というものは、後で変更はいくらでも可能だけれども、意外と根深いところで自分を縛ったりしているもので、そういうものは、こういう本を読んで解きほぐしていくといいんだろうなと思った。
アリだとしたらどうなんだ
子供の頃、公園で、道で、アリの行列に出会って、しゃがんでそれを観察し、ふと、そのうちの2、3匹を潰してみた、という人はどれだけいるのか知らないが、私には記憶がある。
で、昔からずっと思っているのは、そのアリと私とどこが違うのか、ということ。
生きる切実さとか、社会での有用さとか、つまり、存在意義?
結論としては、違わないと思う。
私はアリを潰したとき、潰そうか潰さないかは多分考えなかった。ただふと潰したくなって潰した。
当時の私に取ってアリは、殺すか殺さないかを悩むことすらもしない対象だった。
そのアリと私と何が違うのか。多分違わないと思う。
「神は平等にランダム」とTwitterで誰かが言っていて私は感心してしまったが、つまり、善人にも悪人にも、富める人にも貧乏人にも、健康に気をつけている人にも不摂生な人にも「平等に」ある種の不幸は訪れる。事故や災害や病気や愛する人の死や。
私にはそれが明日かもしれない。
アリにとっての私のように、私の外部の何かが私の人生をふと潰してしまうことはある。
アリがそうであるのに、私がそうでない理由はないから。
なんて人生観で生きていたら出産準備が(生まれるか分からないしと)微妙な感じになっていざ子が無事生まれた後毎日Amazonで検索しまくってポチる羽目になって大変だったんで、そうはいっても人は長く生きる前提で今日を過ごした方が後々楽だなと反省しました。子は無事育つし、自分たちも老後がある前提でね。。。
さておき、アリの話を続けると、アリにとっての(子供の頃の)私のように、完全なる偶然の不運というのは、人間の場合は、「運命」という呼ばれ方をする。
運命というと、ガチガチに決まっているイメージかもしれないけど、私はだいたい偶然だと思う。適当というか。まあ決まってようが偶然だろうが私には知りようがないからどっちでも同じなんだけど。
で、それとは別に人には日々の営みがある。アリが食べものをせっせと巣に運ぶみたいに。人間はもう少し複雑で、家族や友人や仕事や、いろいろな人間関係や経済活動を行っている。
私はこっちの方を主に「人生」と呼んでいる。マイ定義ですけど。
アリを見ていると、四六時中同じことをしているように見える。ハイライトというか、クライマックスがない。その到達点のなさこそが「生」なんだろうなという気がする。
「運命」はもっと劇的なイメージ。子供に気まぐれに潰されるとか。
人間も同じかなあと思う。イメージとしては、運命は縦軸、人生は横軸、みたいな。
子が出来て、子を育て始めて、人間の子というのは平凡な日常を死ぬほど繰り返してあげないと社会で生きていけるようにならないんだけど、その到達点のなさに、私は最初多大なる虚無を感じた。
丁寧な暮らしとかに興味がなく、自分の趣味の他は、生産性とか、達成感とかに慣れていた脳なのでなおさら。
子供はめちゃくちゃ可愛いし愛しているけれど、それと両立する虚無。
そこでふと思い出した。幼い頃私が潰したアリを。私には何の意味もなかったあのアリの生を。
それと同じだと思った。
つまり、生活なのだ。生活こそが人生。
明日運命に潰されるかもしれない、けれどそれまでは私を満たしているもの。
ハイライトも、到達点も、充足感もない。
でも、嬉しさとか、悲しみとか、不安とか、幸せとか、そういうたくさんの感情で埋め尽くされている。
子なんか見てると、自分の欲求と自分の興味にだけ忠実に、ただ「生」を生きていて、それは私が潰したアリと何ら変わらない真摯さで、まあ、ここまで読んでくれた奇特な方にオチがなくてごめんなとそろそろ思い始めたけども、なんというのかなあ、最近やっと「かけがえのなさ」みたいなものが掴めてきた気がする。
それは、明日には死ぬかもしれないから今を大切にというものではなくて、たとえ人間社会で名声や成功を手にしようとも、アリの生と同程度には圧倒的に意味がない「人生」において、たとえば将来や他人の目なんかよりも、その時に自分が感じる感情がどれほど大事かということ。
それこそが人生なんだから、と、子を見て学習しつつ、おかげで虚無が薄れつつ、のこの頃です。
時間がなさすぎてこのブログ推敲がないんだけど、さらに伝わらない選手権を更新してしまった。すみません。
感想という名の賛辞
卵や水に「ありがとう」「好き」と言って変化するのを見る暇があるなら、漫画のレビューに「ありがとう、好き」と書き込む方が効果的だし続刊も出る
— 「天地創造デザイン部」3巻発売中@蛇蔵 (@nyorozo) 2019年6月30日
このツイートでちょっと思い出したけど、友人が、ネットのない時代、結構な大作家に長文の感想を送ったら、凌駕する長文で返事が返ってきたと言っていた。本人も創作をする人なので、多分感想自体が素晴らしく作者さんを揺り動かしたのだと思うけれど、それでも、それほどの大作家でも長文の返信をしてしまうほど、「感想」や「反応」が少なかったのかもしれない、とも思った。
ネットのある今でも、SNSで空中に向けて語ることはしても、作者さんに直接感想っていうのはなかなか勇気がいるから、そんなには無いんじゃないかな。
でも、感想の力は、それを生み出した人を本当に生かすよね。
それは作品だけでなく、家事育児でも。
「ありがとう」は、うちでも息を吸うように言い合うし、それは家事育児を円滑にするけども、ありがとうにも深さがあって、「やっておいたよ」「ありがとう」なんてのは返答なので初級なんだけど、一番届くのは、自分が特に誰かに知られようとしてやったわけでもない小さなことを気づいて「ありがとう」と言ったり言ってもらったりした時じゃないかと思う。
これは、自分と相手が同じ深さで物事にコミットしていないと見えないものだし、相手の行為だけではなく、相手の思想やあり方を肯定する意味があると思う。
相手が少しだけした工夫だったり、自分も気づいてはいたけれどやれていなかったことだったり。
作品の感想とかでもそうじゃないかな。もちろん解釈は受け手に全て委ねられるけれど、自分が密かに込めていた想いだったり、意図していた部分を汲み取ってもらって、そこを褒めてもらったりしたら、特にうれしいんじゃないかな。
家事育児は、まあ互いにやって当然なので、褒めたりおだてたりが必要ない、という話も分からんではないけれど、誰が報酬をくれるわけでもないこの日々の営みで、確実に脳も身体も消耗するので、褒めるというか、労い合うのは、良いと思います。
ああそうそう、この「あり方を褒める」で思い出した。
先日ちょっとTweetしたんだけども、
子を預けている園の園長先生が今年度から変わったんだけど、少し職員の先生の雰囲気が変わった。前の園長先生は長く在園していて人望もあったので、他園開設に合わせて引き抜かれてしまっての、今の園長さん。結構不利な状況の中とても頑張ってくださっているんだけれど、やはり前の園長さんの時のようにはいかないなあと思う。
私が感じるのは、保育士さんのやる気。多分だけど、前の園長さん、各保育士さんの行動をとてもよく見て、すくい上げていた。その人がするちょっとした気遣いや、プラスアルファの作業なんかを。言動や笑顔まで見ていたんじゃないかなあ。
そういう「心の頑張り」みたいなのを、拾い上げてもらっている安心感が昨年度までの先生達の表情にはあった(一保護者の妄想)。
女性が多めの職場で昨年度までは女性園長さんで、今年度からは男性園長さんなのでちょっと遠慮されてるところもあって、それはこれから色々と信頼関係を築いていかれるんだろうなあと思うけど、そして、保育の質が変わったわけでは全くないので保護者として気になる部分ではないんだけれど、個人的に、なるほどなあと感じた出来事でした。
お友達に、保育園で働くのは結構「情」の世界だと教えてもらったので、我々のようなもう少し殺伐とした(頑張っても結果出ないと無意味系の)世界で働いてた人間と、労う場所が違ったりするのではないか、と思う
— ちゃんみつ (@chanm) 2019年6月27日
会社なら結果出すことが全てかもしれないけど、保育園は保育士さん自体に機嫌よく働いてもらうことが第一だし。
— ちゃんみつ (@chanm) 2019年6月27日
家事育児介護みんなそうかもね。結果の世界ではなくて、人が人を支えるのが目的の世界だから、そのあり方に報酬を払うことを、結果で給料もらう側の人間は、見方を変えて、やらないとな。
的なことを最近、思いました。
日本は特に、目に見えないものを評価するのが苦手というか、作業量だったり結果だったりを計測するのはみんな出来るけど、マネジメントの専門職感が薄かったり、仕事をする「あり方」が生産性にどれだけ貢献するかにあまり興味がなさそうなところがあるけど、ただ褒めるだけじゃなくて、「感想」と言えるレベルまでの褒めが出来る人といると、生産性というか、やる気というか、色々違うよね。
そういう意味で、育児や介護については、他の職種のように結果で判断するんじゃなくて、その「あり方」に報酬を与えていくような価値観も持てると、いいのかもしれないなあと思う。システム化してしまうと内申点ぽくてダメかな。わからん。
でもさ、感想言おうとしたことある?難しいよねー。
日本語には褒めの語彙が少ない(他言語は知らないけど英語は多いな。マーベラスとかアメイジングとか)のもあって、その分、いざ人に感想を言おうとすると、「語彙力」ってなるよね。時間を割いて、言葉を繰り出して、相手の意図を大幅に踏み外していないか確認し、失礼がないか確認し、伝える。
その行為自体、もう愛と呼んで差し支えがないと思う。
あ、感想は別に批判でもいいんだけども、批判ならなおさら、上記の作業の慎重さが必要になると思う。
ダメだしだけが得意な人っているけど、周りの人のやる気がなくなって自分の受け取るリターンも縁も減っていくという意味で、人生を全体的に損してるぞあれは。
育児と演劇
子供が生まれたら親は自分が主人公の人生から脇役になる、みたいなたとえ話があるけれど、実際本当に脇役だけの人生になれたら楽なのに、当然そんなことはなく、自分の人生の主役を代わってくれる人はいない。
けれど、脇役は確かに与えられる。子の人生という舞台において。
「わあ!すごい! 良くできたねえ!」
「○○するう? どうするー?」
「痛い痛い! ママ痛いよう。えーんえーん」
なかなかテンション高くて、自分でも上手になったもんだと思う。40年も低いテンションで生きてきた人間の振るまいが突然こうなったところで、周りの人は誰も驚かない。なぜなら幼児に向けた態度だからである。
大きな声で歌いながら道を歩くのは私は昔もやっていてよく夫に「住宅街では静かに」等とたしなめられていたが、それもなくなった。なぜなら今は幼児連れの母親だからである。
この世の成り立ちを言語からして習得していかなければならない人間の育成において、周りの大人達というのは、その子の発達段階に合わせた振る舞いをする。語彙を少なく、簡単に。世界は単純で、親は安心できる場所に。
こちらの理屈なんか聞いてくれない彼らの認知に合わせて、ご飯を食べて欲しいとか、着替えをしてほしいとか、そういうたどり着きたい結果へと、誘導する。
つまり、演技をする。
これは結構続く。意外と高校生くらいまで?
親という名の脇役がいないと即死んでしまうようなことがなくなっても、サンタさんはログアウトしても、自分で様々な判断が出来るようになっても、子がむき身の世界に立ち向かえるようになるまで、子が世界に対して親と「対等」になるまで、親はいくらかは自分や世界について嘘をつき、本当の自分と違う面で子に対応しつづける。多分。
結構長い上演期間だなあと思う。
私は元々、職場とかでも職場用の自分みたいなものがなく、ほぼ素で生きてきたため、育児が人生初めてのがガチ演技経験となった。
育児書を読んだり、周りの人を参考にした見よう見まねだけど、まあ今のところそんなにストレスなくやれてる。どうせなら盛り上がって演技しようみたいな気持ちもある。
忘れてはいけないのは、私が脇役をやっているのは、子の舞台であるということだろう。子はいつか座長として、自分の書いた脚本を自分で生きていく。
その間も私の人生は私の人生ではなんと主役が続いていて、ただ劇中劇の脇役稼業が忙しいみたいな感じである。
なんだけど、その劇中劇がロングランすぎて忘れそうなんだよね。しがみついたところで他人の舞台だから降りないといけない日は来るわけで、そのときに自分の舞台の幕が下りてないことにびっくりしそう。あれまだ何かやるんだっけみたいな。
普通の人は育児しながらでも自分の人生でやりたいことがたくさんあると思うんで大丈夫だと思うけど、私は気をつけたい。
まあ言うほど他人にコミット出来る性格でもないし、子が生まれる前も自分の舞台からは逃避していた感じだったんで、何が変わるというわけでもないんだけど・・。