気力少なめ育児日記

40過ぎ育児においての気力はほぼ体力と同義なので死にそう

感想という名の賛辞

このツイートでちょっと思い出したけど、友人が、ネットのない時代、結構な大作家に長文の感想を送ったら、凌駕する長文で返事が返ってきたと言っていた。本人も創作をする人なので、多分感想自体が素晴らしく作者さんを揺り動かしたのだと思うけれど、それでも、それほどの大作家でも長文の返信をしてしまうほど、「感想」や「反応」が少なかったのかもしれない、とも思った。
ネットのある今でも、SNSで空中に向けて語ることはしても、作者さんに直接感想っていうのはなかなか勇気がいるから、そんなには無いんじゃないかな。

でも、感想の力は、それを生み出した人を本当に生かすよね。
それは作品だけでなく、家事育児でも。

「ありがとう」は、うちでも息を吸うように言い合うし、それは家事育児を円滑にするけども、ありがとうにも深さがあって、「やっておいたよ」「ありがとう」なんてのは返答なので初級なんだけど、一番届くのは、自分が特に誰かに知られようとしてやったわけでもない小さなことを気づいて「ありがとう」と言ったり言ってもらったりした時じゃないかと思う。

これは、自分と相手が同じ深さで物事にコミットしていないと見えないものだし、相手の行為だけではなく、相手の思想やあり方を肯定する意味があると思う。
相手が少しだけした工夫だったり、自分も気づいてはいたけれどやれていなかったことだったり。

作品の感想とかでもそうじゃないかな。もちろん解釈は受け手に全て委ねられるけれど、自分が密かに込めていた想いだったり、意図していた部分を汲み取ってもらって、そこを褒めてもらったりしたら、特にうれしいんじゃないかな。

家事育児は、まあ互いにやって当然なので、褒めたりおだてたりが必要ない、という話も分からんではないけれど、誰が報酬をくれるわけでもないこの日々の営みで、確実に脳も身体も消耗するので、褒めるというか、労い合うのは、良いと思います。

 

ああそうそう、この「あり方を褒める」で思い出した。
先日ちょっとTweetしたんだけども、

子を預けている園の園長先生が今年度から変わったんだけど、少し職員の先生の雰囲気が変わった。前の園長先生は長く在園していて人望もあったので、他園開設に合わせて引き抜かれてしまっての、今の園長さん。結構不利な状況の中とても頑張ってくださっているんだけれど、やはり前の園長さんの時のようにはいかないなあと思う。

私が感じるのは、保育士さんのやる気。多分だけど、前の園長さん、各保育士さんの行動をとてもよく見て、すくい上げていた。その人がするちょっとした気遣いや、プラスアルファの作業なんかを。言動や笑顔まで見ていたんじゃないかなあ。
そういう「心の頑張り」みたいなのを、拾い上げてもらっている安心感が昨年度までの先生達の表情にはあった(一保護者の妄想)。

女性が多めの職場で昨年度までは女性園長さんで、今年度からは男性園長さんなのでちょっと遠慮されてるところもあって、それはこれから色々と信頼関係を築いていかれるんだろうなあと思うけど、そして、保育の質が変わったわけでは全くないので保護者として気になる部分ではないんだけれど、個人的に、なるほどなあと感じた出来事でした。

的なことを最近、思いました。
日本は特に、目に見えないものを評価するのが苦手というか、作業量だったり結果だったりを計測するのはみんな出来るけど、マネジメントの専門職感が薄かったり、仕事をする「あり方」が生産性にどれだけ貢献するかにあまり興味がなさそうなところがあるけど、ただ褒めるだけじゃなくて、「感想」と言えるレベルまでの褒めが出来る人といると、生産性というか、やる気というか、色々違うよね。

そういう意味で、育児や介護については、他の職種のように結果で判断するんじゃなくて、その「あり方」に報酬を与えていくような価値観も持てると、いいのかもしれないなあと思う。システム化してしまうと内申点ぽくてダメかな。わからん。

でもさ、感想言おうとしたことある?難しいよねー。
日本語には褒めの語彙が少ない(他言語は知らないけど英語は多いな。マーベラスとかアメイジングとか)のもあって、その分、いざ人に感想を言おうとすると、「語彙力」ってなるよね。時間を割いて、言葉を繰り出して、相手の意図を大幅に踏み外していないか確認し、失礼がないか確認し、伝える。
その行為自体、もう愛と呼んで差し支えがないと思う。
あ、感想は別に批判でもいいんだけども、批判ならなおさら、上記の作業の慎重さが必要になると思う。

ダメだしだけが得意な人っているけど、周りの人のやる気がなくなって自分の受け取るリターンも縁も減っていくという意味で、人生を全体的に損してるぞあれは。