気力少なめ育児日記

40過ぎ育児においての気力はほぼ体力と同義なので死にそう

アリだとしたらどうなんだ

子供の頃、公園で、道で、アリの行列に出会って、しゃがんでそれを観察し、ふと、そのうちの2、3匹を潰してみた、という人はどれだけいるのか知らないが、私には記憶がある。

で、昔からずっと思っているのは、そのアリと私とどこが違うのか、ということ。

生きる切実さとか、社会での有用さとか、つまり、存在意義?

結論としては、違わないと思う。

 

私はアリを潰したとき、潰そうか潰さないかは多分考えなかった。ただふと潰したくなって潰した。

当時の私に取ってアリは、殺すか殺さないかを悩むことすらもしない対象だった。

そのアリと私と何が違うのか。多分違わないと思う。

 

「神は平等にランダム」とTwitterで誰かが言っていて私は感心してしまったが、つまり、善人にも悪人にも、富める人にも貧乏人にも、健康に気をつけている人にも不摂生な人にも「平等に」ある種の不幸は訪れる。事故や災害や病気や愛する人の死や。

私にはそれが明日かもしれない。
アリにとっての私のように、私の外部の何かが私の人生をふと潰してしまうことはある。

アリがそうであるのに、私がそうでない理由はないから。

 

なんて人生観で生きていたら出産準備が(生まれるか分からないしと)微妙な感じになっていざ子が無事生まれた後毎日Amazonで検索しまくってポチる羽目になって大変だったんで、そうはいっても人は長く生きる前提で今日を過ごした方が後々楽だなと反省しました。子は無事育つし、自分たちも老後がある前提でね。。。

 

さておき、アリの話を続けると、アリにとっての(子供の頃の)私のように、完全なる偶然の不運というのは、人間の場合は、「運命」という呼ばれ方をする。

運命というと、ガチガチに決まっているイメージかもしれないけど、私はだいたい偶然だと思う。適当というか。まあ決まってようが偶然だろうが私には知りようがないからどっちでも同じなんだけど。

 

で、それとは別に人には日々の営みがある。アリが食べものをせっせと巣に運ぶみたいに。人間はもう少し複雑で、家族や友人や仕事や、いろいろな人間関係や経済活動を行っている。

私はこっちの方を主に「人生」と呼んでいる。マイ定義ですけど。

 

アリを見ていると、四六時中同じことをしているように見える。ハイライトというか、クライマックスがない。その到達点のなさこそが「生」なんだろうなという気がする。

「運命」はもっと劇的なイメージ。子供に気まぐれに潰されるとか。

 

人間も同じかなあと思う。イメージとしては、運命は縦軸、人生は横軸、みたいな。

 

子が出来て、子を育て始めて、人間の子というのは平凡な日常を死ぬほど繰り返してあげないと社会で生きていけるようにならないんだけど、その到達点のなさに、私は最初多大なる虚無を感じた。

丁寧な暮らしとかに興味がなく、自分の趣味の他は、生産性とか、達成感とかに慣れていた脳なのでなおさら。

子供はめちゃくちゃ可愛いし愛しているけれど、それと両立する虚無。

 

そこでふと思い出した。幼い頃私が潰したアリを。私には何の意味もなかったあのアリの生を。

それと同じだと思った。

 

つまり、生活なのだ。生活こそが人生。

明日運命に潰されるかもしれない、けれどそれまでは私を満たしているもの。

ハイライトも、到達点も、充足感もない。

でも、嬉しさとか、悲しみとか、不安とか、幸せとか、そういうたくさんの感情で埋め尽くされている。

 

子なんか見てると、自分の欲求と自分の興味にだけ忠実に、ただ「生」を生きていて、それは私が潰したアリと何ら変わらない真摯さで、まあ、ここまで読んでくれた奇特な方にオチがなくてごめんなとそろそろ思い始めたけども、なんというのかなあ、最近やっと「かけがえのなさ」みたいなものが掴めてきた気がする。

 

それは、明日には死ぬかもしれないから今を大切にというものではなくて、たとえ人間社会で名声や成功を手にしようとも、アリの生と同程度には圧倒的に意味がない「人生」において、たとえば将来や他人の目なんかよりも、その時に自分が感じる感情がどれほど大事かということ。

 

それこそが人生なんだから、と、子を見て学習しつつ、おかげで虚無が薄れつつ、のこの頃です。

 

 時間がなさすぎてこのブログ推敲がないんだけど、さらに伝わらない選手権を更新してしまった。すみません。