気力少なめ育児日記

40過ぎ育児においての気力はほぼ体力と同義なので死にそう

育児と演劇

 子供が生まれたら親は自分が主人公の人生から脇役になる、みたいなたとえ話があるけれど、実際本当に脇役だけの人生になれたら楽なのに、当然そんなことはなく、自分の人生の主役を代わってくれる人はいない。

 けれど、脇役は確かに与えられる。子の人生という舞台において。

 

「わあ!すごい! 良くできたねえ!」
「○○するう? どうするー?」
「痛い痛い! ママ痛いよう。えーんえーん」

 

 なかなかテンション高くて、自分でも上手になったもんだと思う。40年も低いテンションで生きてきた人間の振るまいが突然こうなったところで、周りの人は誰も驚かない。なぜなら幼児に向けた態度だからである。

 大きな声で歌いながら道を歩くのは私は昔もやっていてよく夫に「住宅街では静かに」等とたしなめられていたが、それもなくなった。なぜなら今は幼児連れの母親だからである。

 この世の成り立ちを言語からして習得していかなければならない人間の育成において、周りの大人達というのは、その子の発達段階に合わせた振る舞いをする。語彙を少なく、簡単に。世界は単純で、親は安心できる場所に。
 こちらの理屈なんか聞いてくれない彼らの認知に合わせて、ご飯を食べて欲しいとか、着替えをしてほしいとか、そういうたどり着きたい結果へと、誘導する。
 つまり、演技をする。

 これは結構続く。意外と高校生くらいまで?
 親という名の脇役がいないと即死んでしまうようなことがなくなっても、サンタさんはログアウトしても、自分で様々な判断が出来るようになっても、子がむき身の世界に立ち向かえるようになるまで、子が世界に対して親と「対等」になるまで、親はいくらかは自分や世界について嘘をつき、本当の自分と違う面で子に対応しつづける。多分。

 

 結構長い上演期間だなあと思う。

 私は元々、職場とかでも職場用の自分みたいなものがなく、ほぼ素で生きてきたため、育児が人生初めてのがガチ演技経験となった。
 育児書を読んだり、周りの人を参考にした見よう見まねだけど、まあ今のところそんなにストレスなくやれてる。どうせなら盛り上がって演技しようみたいな気持ちもある。

 忘れてはいけないのは、私が脇役をやっているのは、子の舞台であるということだろう。子はいつか座長として、自分の書いた脚本を自分で生きていく。
 その間も私の人生は私の人生ではなんと主役が続いていて、ただ劇中劇の脇役稼業が忙しいみたいな感じである。

 なんだけど、その劇中劇がロングランすぎて忘れそうなんだよね。しがみついたところで他人の舞台だから降りないといけない日は来るわけで、そのときに自分の舞台の幕が下りてないことにびっくりしそう。あれまだ何かやるんだっけみたいな。

 普通の人は育児しながらでも自分の人生でやりたいことがたくさんあると思うんで大丈夫だと思うけど、私は気をつけたい。
 まあ言うほど他人にコミット出来る性格でもないし、子が生まれる前も自分の舞台からは逃避していた感じだったんで、何が変わるというわけでもないんだけど・・。